日南市の飫肥に城下町が残っているのは、偶然ではありません。室町時代の末から豊臣秀吉が九州を平定するまでのおよそ100年間、伊東氏と島津氏はこの地を奪い合い続けました。その結果、飫肥城とその城下は九州でも屈指の攻防の舞台になったのです。今その痕跡を歩けるのが、日南市飫肥地区です。
伊東氏と島津氏、百年の攻防
飫肥城をめぐる争いが本格化したのは長禄2年(1458年)頃です。島津氏が新納忠続らをこの城に配置し、南下してくる伊東氏に備えました。1484年(文明16年)には伊東祐国が飫肥侵攻の最中に戦死し、島津氏の一族・島津豊州家がその後も飫肥を治め続けました。
均衡が動いたのは1568年(永禄11年)です。伊東義祐が大軍を率いて飫肥城を包囲し、島津忠親が守る城を約5か月にわたって攻め続けました。援軍として駆けつけた北郷時久の軍も撃退され、同年、島津豊州家はついに飫肥城を伊東氏に明け渡します。
しかし伊東氏の勢いも長くは続きませんでした。1572年の木崎原の戦いで島津氏に大敗し、勢力を大きく落とすと、飫肥城は再び島津方の手に戻ります。伊東氏が飫肥城主として返り咲くのは、豊臣秀吉による九州平定の後です。功を認められた伊東祐兵が城主となり、以後、飫肥藩伊東家(5万1千石)は明治維新までおよそ280年間、この地を治めました。城を奪い合った時代の緊張感が、いま歩く城下町の骨格を形づくったことになります。
飫肥杉と海運が築いた経済
飫肥藩の財政を長く支えたのが、飫肥杉です。藩は殖産興業策として領内の山々に飫肥杉の植林を進めました。この地域の温暖多湿な気候で育った飫肥杉は、樹脂分が多く水を吸いにくい。弾力があって曲げに強く、比重が小さいので浮力もある。船をつくるにはうってつけの材でした。
造船用に加工された飫肥杉材は「弁甲(べんこう)」と呼ばれ、幕末以降は瀬戸内海沿岸の造船地帯へ廻船で盛んに送られました。明治から昭和40年代にかけて、西日本の木造船の多くがこの飫肥杉でつくられていたと伝わります。山あいの小さな藩の木材が、遠く離れた海運・造船業を支えていたのです。
いま歩いて見えるもの
飫肥城の大手門は明治4年(1871年)に一度取り壊されました。それが昭和53年(1978年)、樹齢100年を超える飫肥杉を使い、くぎを使わない伝統工法で復元されたのです。復元工事の際には正徳3年(1713年)の銘が入った礎石も見つかり、現在は門の内側に保存されています。門をくぐった先の石垣と苔むした階段だけでも、城のスケールを十分に感じられます。
城主の居館だった松尾の丸は昭和54年(1979年)、江戸初期の書院造りの姿で復元されました。敷地内の飫肥城歴史資料館には、伊東氏歴代の甲冑や武具、古文書など約220点が収められています。
城の周辺、酒谷川に三方を囲まれたエリアは1977年、九州・沖縄地方で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。地方の小規模な城下町の典型として、石垣と土塀、生垣に囲まれた武家屋敷の町並みがよく残っている点が評価されています。上級武士の屋敷から町家まで、身分に応じた屋敷地の配置がそのまま道に沿って続いているのが特徴です。
飫肥出身の外交官・小村寿太郎の生家もこの一帯にあります。日露戦争を終結させたポーツマス条約の調印者として知られる人物です。生家は大正10年に現在地へ移築され、2004年から公開されています。近くの小村寿太郎記念館では、その生涯をたどれます。
町歩きの合間には、飫肥名物の食べ歩きも楽しみのひとつです。甘く焼き上げる厚焼き玉子、地魚を使った練り物のおび天。城下町の通り沿いには、こうした名物を扱う店が点在しています。
歩くための実用情報
飫肥城下町は飫肥城跡を中心に、商家の屋敷を公開する旧山本猪平家、武家屋敷の旧高橋源次郎家、藩主の別邸だった豫章館、小村寿太郎記念館などが徒歩圏に集まる一帯です。じっくり見るなら半日、要所だけなら2時間ほどが目安です。
これらの施設をまとめて回れる共通観覧券も、飫肥城下町保存会によって用意されています。複数の施設を回るなら、対象施設の組み合わせや料金を現地または公式サイトで確認してから購入するとよいでしょう。
アクセスは、宮崎市内から車でおおよそ1時間から1時間半程度が目安です。JR日南線なら宮崎駅から飫肥駅まで列車でおよそ70分。料金や運行本数、営業時間は変動するため、出かける前に日南市や飫肥城下町保存会の公式サイトで最新情報を確認してください。



