高千穂峡の断崖には、規則正しく並んだ六角形の岩肌が続きます。ボートで見上げても、遊歩道から眺めても、この形はどう見ても自然にできたとは思えません。答えは足元の岩そのものに刻まれています。高さ80mを超える崖は、阿蘇山が噴き出した高温の岩の破片が積もり、冷え固まる過程でできた模様です。

断崖をつくったのは阿蘇の噴火

高千穂峡がある五ヶ瀬川の谷底には、もともと秩父帯と呼ばれる古い岩盤がありました。そこに阿蘇山からの噴出物が流れ込んだのが、今の渓谷の始まりです。

阿蘇山は約27万年前から約9万年前にかけて、4回の巨大噴火を起こしたとされています。このうち高千穂峡の岩を作ったのは、約12万年前と約9万年前の噴火です。噴火では「火砕流」が発生しました。高温のガスと軽石・火山灰が一体となり、時速数十km以上で山肌を流れ下る現象です。この火砕流が、阿蘇から70km近く離れた高千穂の谷にまで到達し、厚く積もりました。

火砕流の堆積物は自重と余熱で圧縮され、溶けたガラス質が再び固まって一枚の岩盤のようになります。これを溶結凝灰岩と呼び、高千穂峡の断崖はこの岩が積み重なってできています。

柱状節理という「割れ方」の物理

断崖に並ぶ六角形の柱は「柱状節理」と呼ばれる構造です。厚く積もった溶結凝灰岩が冷えて固まるとき、岩は少しずつ体積を縮めます。縮む力が岩全体に均等にかかると、岩は最も無駄なく縮む形として六角形の柱状に割れていきます。蜂の巣が六角形になるのと同じ理屈で、力学的にいちばん安定する形が六角形なのです。

この柱状節理ができた後、五ヶ瀬川が長い時間をかけて岩を削り込み、柱の断面がむき出しになった深いV字谷を刻みました。真名井の滝が垂直に近い崖から落ちるのも、玉垂の滝が岩の隙間からしみ出すのも、川が柱状節理の岩を割りながら谷を掘り下げてきた結果です。

高千穂峡は1934年、「五箇瀬川峡谷」として国の名勝・天然記念物に指定されました。1965年には祖母傾国定公園の一部にもなっています。

なぜ「神話の里」と呼ばれるのか

地質の年代が十万年単位であるのに対して、高千穂が「神話の里」と呼ばれる由来は、記録に残るだけでも千数百年前までさかのぼる、人の歴史の話です。

『古事記』『日本書紀』には、天照大神が孫の瓊瓊杵尊に地上の統治を託したとする神話が記されています。瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降り立ったという「天孫降臨」の物語です。天照大神が天の岩戸に隠れて世界が闇に包まれたとされる「天岩戸神話」も、高千穂に伝わる代表的な物語です。これらはあくまで神話であり、史実として起きた出来事ではありません。

ただし、その神話が伝わる場所として、高千穂には天岩戸神社や高千穂神社といった実在の神社が古くから建てられてきました。これらは地域の信仰の中心として、今も人々に大切にされている。天岩戸神社は天照大神が隠れたと伝わる洞窟を御神体とし、高千穂神社は高千穂郷八十八社の総社として崇敬を集めています。

なお、天孫降臨の地をめぐっては、高千穂町とは別に鹿児島・宮崎県境の高千穂峰を聖地とする説もあります。中世から本家をめぐる論争が続いてきました。

重要なのは、これが史実ではなく語り継がれてきた物語だという一点です。「ここが神話の舞台そのもの」と断定できる考古学的な証拠はありません。

夜神楽が伝えてきたもの

高千穂に伝わる神楽は、秋の実りへの感謝と翌年の豊穣を祈る神事です。毎年11月中旬から2月上旬にかけて、町内の集落ごとに奉納されます。文治5年(1189年)の古文書や室町時代の面が残ることから、鎌倉・室町期にはすでに舞われていたと考えられています。1978年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。

演目には天岩戸神話を題材にしたものが多く含まれる。神々が岩戸の前で舞い踊ったという物語を、人々が800年以上にわたって舞として演じ継いできたことになります。高千穂神社の神楽殿では、観光客向けに代表的な演目が毎晩上演されています。

現地で歴史を体感するなら

渓谷の成り立ちを意識して歩くと、同じ景色でも見え方が変わる。断崖の六角形の柱はボートか遊歩道から間近で見られる。柱状節理の岩盤がむき出しになった崖を滝が落ちているため、真名井の滝の落差の大きさから、当時積もった火砕流のおおよその厚みを思い描くことができます。

神話の側は、天岩戸神社と高千穂神社を訪ねるとよく分かります。伝承がどのように語られ、どのように祀られてきたかを、実際の建物や社叢の中で確認できるからです。日が沈んでから高千穂神社の神楽を見れば、十万年単位の岩の歴史と、数百年単位の人の歴史が同じ谷の中に重なっていることが実感できるはずです。